公害環境対策部・現地視察会
丸森町筆甫を訪ねる
公害環境対策部員 加藤純二
平成28年4月10日、当協会公害環境対策部は「震災5年現地視察会」として県南部の丸森町、特に筆甫(ひっぽ)を視察した。部員の他に鳥の海歯科医院の上原忍理事、宮城厚生協会長町病院の佐藤行夫会員も加わり、8名で出発した。常磐自動車道から亘理町の海沿いが見える時には、上原先生から地震・津波に襲われた時の体験のお話があった。約2メートルの高さの津波で、人口1.7万人の山元町では700人の犠牲者が出たという。遠くの海岸の歯が抜けたような松林は当時と変わらない。山元ICを出て丸森町に入り、山道を渓流(内川)伝いに登り、約1時間半で予定通り筆甫まちづくりセンターに到着した。丸森町は宮城県最南部にあり、町の南半分が福島県に突出した形をしている。突出部の西側は国見町、伊達市(旧梁川町と旧霊山町)に接し、南部と東部はそれぞれ相馬市、新地町に接している。筆甫とは奇妙な名前だが、伊達政宗が領内検地した際、最初に記入した土地である由縁で「筆の甫(はじめ)」を意味して名付けられたという。昭和29年までは筆甫村、周辺の町村が丸森町に合併され、現在は大字・筆甫である。
〈丸森町筆甫の状況〉
放射能汚染地域は相馬市との境界にある山林地帯で、筆甫は最もそこに近い集落である。センター事務局長の吉沢武志さん、町会議員の庄司一郎さん、「子どもたちを放射能から守るみやぎネットワーク」代表の太田茂樹さんが待機していてくれ、それぞれの立場から原発事故後の筆甫地域が抱える問題を語ってくれた。
地震・津波災害の後、原発事故が起こった。当時は筆甫地域に放射能汚染が及んだという情報はなく、勿論、放射能測定器はなかったという。南相馬市からの避難者が中学校の校舎に入っていた。福島県の浪江町や飯館村が放射能で濃厚に汚染され、ほぼ全住民が退避した。飯館村に近い筆甫地域の放射能汚染に気づいてから、地域の汚染地図を作った経緯、食品の放射能測定、補償交渉や子どもの甲状腺検査の状況などをお聞きした。宮城県であるがための交渉の困難さと風評被害に悩まされ、高価な食品放射能測定器は地域住民と筆甫出身者のカンパで購入せざるを得なかったという。大震災前までは、田舎生活にあこがれ、筆甫に移住してくる人々が少しずつ増えていた矢先の原発事故だった。筆甫地域の放射能汚染が報道されたあと、移住の問い合わせはほとんどなくなったという。ちなみに、平成23年6月から7月、地上1メートル、137定点の測定で、1.25μSV/hourが2箇所、平均で0.032μSV/hourであったという。「へそ大根」は筆甫の名物であり、山菜、シイタケ、タケノコ、渓流釣り、イノシシ肉など、すべてが壊滅状態となった。食品の放射能汚染を測定し、公表しようとしたところ、「アンタ達だけの筆甫ではない」と一部の筆甫の住民から、反対されたという。
〈子どもの脱落乳歯の保存のお願い〉
井上理事長と公害環境対策部の島部長から、子どもの脱落乳歯の保存について、その目的やお願いの申し入れをした。ストロンチウムは成長過程にある乳歯に取り込まれ、放射性ストロンチウムはベータ線を出し、その半減期が長い(28.79年)ことから、将来、保存乳歯の放射性ストロンチウムを測定することにより、子どもの居住した地域の放射能汚染や、同時期に取り込まれ消失した骨髄における内部被曝と後々の白血病などの発生との関連性などの研究材料となる。
〈甲状腺検査〉
原発事故後の12月4日と翌24年1月15日、丸森町は筆甫と耕野(同町西部)の2地区の子ども64人の甲状腺検査を行い、そのうち12人(18.8%)に結節を認めた。しかし県が委嘱した有識者による会議は、平成24年2月、「甲状腺の結節は、しばしば認められる甲状腺の状態であり、現状では健康への悪影響は考えられず、健康調査の必要性はない」と結論づけた。丸森町は甲状腺検査などの費用の支払いを求めて国の紛争解決センターに申し立てを行い、町はセンターが示したおよそ1500万円を東京電力が支払うとする和解案を受け入れたという。その後、丸森町は平成24年3月から25年3月までに甲状腺検査を行い、以後、3年ごとに検査を行う予定であり、2回目の検査結果が近日中に出るとのことだった。
〈仮置き場、帰途〉
再びマイクロバスで放射能汚染物の仮置き場に向かった。途中、樹齢約680年という満開のヒガンザクラの大木を見た。この近くには江戸時代のたたら製鉄跡や隠れキリシタンが住んだ痕跡があるという。
山道でバスがUターンするのに困難な場所に停車し、山の斜面に作られた何段かの仮置き場を見た。すべて黒いビニールシートに覆われており、除染作業は地元建設業者が請け負っているという。
視察を終えて、不動尊の近くにある「自然ゆうゆう館」にあるレストラン「天水舎」で昼食をとった。この地域のイノシシの肉は放射能で汚染されているはずだと思ったがメニューに「イノシシ肉カレーライス」があったので筆者は注文した。どこか別のところで捕獲した放射能汚染されていないイノシシの肉を使っているのであろう。残念なことにイノシシの肉の味はカレーの味に消されてその特徴は掴めなかった。レストランの周囲は池になっており、サクラの花びらが一面に浮かんでいた。
再びバスに乗り、仙台に向かった。バスの中では各自が感想を述べ合った。筆者の感想であるが、筆甫まちづくりセンターの壁には筆甫にかつて暮らした人々の古い写真が多数、貼られていた。山岳地帯なので広い耕地がなく、戦前、この地域から多くの住民が満蒙開拓に出て行った。写真は、ここに平和な暮らしがあったことを示していた。夢を抱いて開拓に出た人々には、敗戦のドサクサに多くの困難が降りかかったであろう。その約70年後、原発事故による放射能汚染がこの集落を再び襲ったのだ。2006年の人口は940人だったという。大震災の前には850人、現在の人口は634人だという。放射能汚染は測定器でしか感知できず、一見、何事もなかったような集落の風景に放射能汚染の不気味さを感じだ。