「女川町津波被害地と女川原発の視察会」
公害環境対策部員 加藤 純二
宮城県保険医協会の現地視察会
宮城県保険医協会に「公害環境対策部会」ができて2年になる。かねてから女川原発を直接見たいという意見があり、平成26年5月25日(日)朝、マイクロバスで保険医協会が入っている広瀬通りのゴルフ用品販売店があるホンマビルを出発した。事務局3名、総勢11名であった。小生は大震災3年目の3月11日、和歌山から福島市でのイベントに参加した二人に頼まれて翌日に女川原発を案内したので、2回目であるが、現地で町会議員の高野博さんと彼の友人のMさんご夫妻が案内をしてくれるというので参加した。石巻市
三陸(高速)自動車道を経由して石巻市に入った。公害環境対策部長の歯科医・島和雄先生は石巻市出身で、大震災3週間後の石巻の様子を自分で撮影した写真や動画をノートパソコンで見せてくれた。当時、ガレキが道路脇に寄せられ、主な道路だけはやっと通れるようになった状態で、遺体の発見も続いていた。石巻市は福島、宮城、岩手県の沿岸市町村で津波犠牲者の割合が最も高かった。現在は消失した家々の基礎部分だけが残っている。バスが旧北上川を渡り、牧山トンネルを抜けると万石浦である。昔、釣り船でカレイ釣りをここでしたことがある。海とのつながり部分が狭くて、ここには津波が来なかった。石巻線は女川町に入る手前の浦宿駅まではディーゼル列車が走っている。沿岸の主な道路は片側1車線の国道398号線が1本だけ。原発事故が起これば渋滞して車は走れないであろう。女川町
女川町は大震災前の人口が約1万人、津波死亡者が827人。現在、住民票で人口は半減したという。町の入り口にある海産物の仮設の売店「マリンパル女川」で高野さんとMさんご夫妻が合流した。後で記すが、ご夫妻は津波の時、かろうじて助かったという。町の中心部に入る前、右手は丘陵である。女川湾を襲った津波は高さが海抜34メートルあった。津波は町中心部から、丘陵部の後方にも廻ってきたため、山陰の家並みや集会場が消えている。町の中心部に入ると建物は殆どすべて消失。大きなコンクリートの建物が三つばかり横転し、無残な姿をさらしていた。この内、交番の建物を津波災害遺構として残すことが検討されているという。
車は左折して高台にある町立診療所に向かった。岡の下あたりを黄金町といい、昔はすぐ下まで海だったのを埋め立てたという。このあたり出身の患者さんによれば、井戸を掘ると塩水がでるという。岡の上の大きな建物は、元は内科、外科を含め11科あった総合病院だったが、人口減少と赤字のため、今は19床だけの診療所となり、余分なスペースは介護施設として使っているという。改修にはスイスからの寄付19億円が使われたという。玄関の柱に津波の到達点の印が付けてあった。病院の建物1階にいても危なかったのである。七十七銀行など大きな建物の屋上に逃げていた人々は助からなかった。Mさんによれば、地震の直後、「津波が来ます」という防災放送があり、あとで再度の放送があり、「大津波です、高台に逃げて下さい」という放送に変わったという。それが聞こえたのか、聞こえても移動する時間がなかったのか、七十七銀行の屋上に逃げて死亡した職員についての裁判で問題になっているという。Mさんらは自分が経営するドラッグストアから一旦、近くの公民館へ避難したが、役場職員がきて、「高台へ逃げた方がいい」と言われ、高台へと走った。しかし津波が迫ってきて高台手前にあった5階建ての生涯教育センターの建物の非常階段を登り、屋上にはハシゴ状の階段で上がったという。そのあたりで津波は21メートルに達し、上れなかった人々もいたという。27人が雪の中、寒さで震えているところ、パイプに断熱シートが巻かれているのに気づき、それをはがして身にまとえばということになった。奥さんが財布に常にハサミを携帯していることに気づいて、それでシートを帯状に切って身に巻いたという。そのハサミを皆に見せてくれたが、長さ5、6センチの小さなものである。道具というものはありがたいものだ。
小生などは、旅行の前にはボストンバッグが見つからない、葬式には黒ネクタイが見つからない、駐車場の出口では駐車券が見つからないというように、準備状態を作るのが不得手である。今回の大震災の数々の体験談の中で、頭に着けるLEDランプが停電時に照明が長持ちして便利だったということを読み、早速、買った。しかしそのあと停電がないので、使えるのはいつになることか。稀に起こることや災害に備えるということはむずかしいものだ。オフサイトセンター、中学校、仮設住宅など
原発に行く前に東北電力のオフサイトセンターがあったところを通った。オフサイトセンターはテレビ会議ができるようになっていて、避難訓練なども行っていたが、津波で保安員6人が死亡し、建物は取り壊されて何もない。ここから左手に登ると中学校や仮設住宅、情報交流館などがある。生徒が募金して建てた「命の石碑」を見た。この高さまで津波が来ましたという印が石碑についていた。運動場に仮設住宅が並び、高野さんもここに住んでいる。近くに二百戸の災害公営住宅が新築されていた。仮設住宅は無料だったが、公営住宅は家賃が1万3千円、数年後には2万6千円になり、高齢化した年金生活者にはきつい。津波で壊滅した町中心部は付近の山を切り崩して盛り土している最中であった。駅は山沿いに移動する。いずれ自分の家を建てる人は、例えば約300万円で自分の土地を町に売り、その倍くらいの価格で新たに土地を買い、自力で家を建てることになるという。町らしい姿がもどるには、かなりの年月がかかりそうだ。近くの情報交流館を見て、女川原発に向かった。
もともと女川町は豊かな地域であった。ホヤ、カキ、ホタテ、銀ザケの養殖で約10億円、サンマなどの魚とその加工品の売り上げで300億円ほどの収入があり、海の幸のお陰で皆が充分に食べていかれた。40年前に原発建設の話が持ち上がり、町民が割れ、多額の保証金がでて原発建設が決まった。漁業家には少なくて800万円、普通2000万円、多い人で4000万円が支払われたという。風評被害を恐れて、大手の水産業者が移転したという。原発、モニタリングポスト
現在、町には食堂が2軒あり、原発のある牡鹿半島の付け根にある「活魚・ニューこのり」で昼食をとった。このあたりを小乗浜という。いつも満員になるというが、予約してあったので待つことなく、食事しながら高野さんの女川原発についての説明を聞いた。電力会社の不誠実な隠蔽体質と、40年以上の反原発運動の苦労を感じた。
松島湾の海水に7、8年前、放射性ヨード゙が検出されたときには、医療機関からの垂れ流しということで、その医療機関を特定することなく、あいまいなままだという。ある宮城県会議員やジャーナリスト・櫻井よしこらは「今回の地震・津波に際して女川原発が事故を起こさず、むしろ付近の住民が原発に避難して助かったのは、女川原発の安全対策の優秀性を示している」と言っている。しかし、逃げ込んだのは原発よりもかなり高い位置にある山の上のPRセンターのことで、原発施設に逃げ込んだのではない。原発が海抜14.8メートル、地震で地盤沈下して13.8メートル、津波は13メートルだった。高野さんに言わせると、水をくみ上げるにはもっと低い位置にしたかったが、そうすると大量の岩を削らなければならず、その高さにしただけで、津波対策を考えていたら、オフサイトセンターはなぜ高い位置に作らなかったのか、と疑問を感じるという。とにかく我々14人は多くの疑問を顔に浮かべて、PRセンターに入った。案内係の女性の他、広報係のIさんが質問に答えてくれた。
まずホールで15分くらいの動画を見た。いかに女川原発が大震災を乗り切ったのかという女川原発の安全性を強調したものであった。次いで展望室へ行き、ミニチュアの原発施設を見ながらの説明があった。小生は二つ質問した。一つは外部電源5ルートの内、1ルートが残ったというが、4ルートが途絶えたということは、原発が非常に脆弱なことを示しているのではないのか。しかも4月7日の余震で、残った1ルートを含めて再び4ルートが途絶えた。外部電源がすべて途絶えたら、福島原発と同じく、混乱の中で暴走を回避できなかったのではないかということ。
もう一つは、福島原発の事故のあと、女川原発の敷地にある6箇所のモニタリングポストの特に1号炉に近い1箇所で、放射能が異状に高くでた(3/13 AM1:50, 21μSV/hour、前日は0.03μSV/hour)こと。これを東北電力は「福島原発からの放射能が海上を飛んできたため」と説明している。「120キロ以上離れているのだから、狭い敷地の中の1箇所だけが高い値を示すのはおかしい。むしろ女川原発の1号炉で放射能漏れが起きたのではないか」と質問した。答えは「我々はそうは考えておりません」だった。福島原発では地震のあと、浪江町から飯館村を皮切りに非常に高い放射能汚染が広がったのは、15日朝からで、2号炉から放射能が漏れ、内陸に向かって風が吹いたためと考えられている。次いで風向きの影響で、主に福島県中通りに汚染をもたらしたが、一部、宮城県の北西部の山沿いに栗原方面にも広がった。女川原発で1箇所のモニタリンブポストが高い放射線量を示したのは、福島で高い汚染が広がった前々日である。老朽化した女川原発1号炉で何が起こったのか。原発については透明性がないので追求のしようがない。女川原発で修理工事をした作業員の聞き取り調査が必要であると思う。他にも会員から多くの質問があった。
高野さんたちの資料によれば、津波の水1,900トンが2号炉の配管・ケーブルのパイプを通じて原子炉建屋のとなりの付属棟の地下3階に入り、熱交換器4台の内2台を水没させた。1号炉では配電盤の火災が発生、5時間後に消火。その他、報告された破損が600箇所。まさに満身創痍、暴走しなかったのが不思議なくらいというのが現実ではないだろうか。女川原発だけで200万KW/hour以上、発電でき、宮城県全体の電力をまかなうことができますと言った。しかし「複雑な装置ほど、故障が起こりやすく、修理はむずかしい」という大原則は、原発によく当てはまり、事故がいったん起これば、宮城県全体の面積を越える地域を放射能が汚染しかねない。ただ説明役の女性だって、広報係のIさんだって職員としての立場があろう。ボールペンの景品をいただき、二人にお礼を言って、入り口で集合写真を撮った。次いで原発全景を見るため向かい側の小屋鳥浜へ向かった。そこで写真をとり、帰路、道路脇の2箇所のモニタリングポストで、持参した二つの線量計で5~10回の測定を行った。コンクリートの上でなく、1メートルばかり離れた自然の地表では、やはりモニタリングポストよりかなり高い値がでた。河北新報では毎日、東北地方の地図の上に仙台市の放射線量を0.05μSV/hourと表示しているが、これも信用できない。マイクロバスがマリンパーク女川に着き、高野さんらと別れ、帰途に着いた。
脱原発、状況の変化 おりしも5月21日、福井地裁で、大飯原発の再稼働は認めないという画期的な判決が出た。また朝日新聞は、20日から、福島第一原発の元所長・吉田昌郎氏の『聴取結果書』の内容を、連日、掲載し始めた。国会事故調の中で、東京電力や国が隠してきたこの証言は、原発事故の現場の状況を生々しく伝えるものだ。現在、阿倍内閣はリークした人物を特定しようとしているらしい。しかし脱原発の流れは少数の人々の捨て身の努力で変わりつつある。また変わらなければ、我々日本民族は破滅的危機に陥ると思う。たとえピンボケであっても事実を見て、真実を聞いて、他の人々に言い伝えることが必要だ。日本人が、見ざる、聞かざる、言わざるの三ザルでいては、福島県の山の中で被曝しながら生きている日本ザルに申し訳ない。
(平成26年6月26日)