シリーズ「女川原発廃炉への道」No,57


シリーズ「女川原発廃炉への道」

能登地震と象潟地震と原発

公害環境対策部員 加藤 純二

 令和6年元旦に能登半島地震が起きた。震度7の激しい揺れに過疎地域の古い木造民家の多くが倒壊した。海岸では地盤が隆起し、漁船が入れなくなった港の様子がテレビで放映された。 思い出されたのは、芭蕉の「奥の細道」に出てくる象潟である。芭蕉が江戸を出発したのは元禄2年(1689年)の春。芭蕉と弟子・曽良は松島、平泉を見て、鉈切り峠を越えて出羽の国(山形県)へ入り、各地を見物し、酒田に逗留した。そこから「北方十里」の象潟(秋田県)を訪れた。象潟は今とは違い九十九島といって浅い海に多数の島が浮かぶ松島に劣らぬ名所であった。芭蕉はここを船で遊覧し、「象潟や雨に西施が合歓(ねむ)の花」と詠んだ。 芭蕉訪問の125年後、文化元年(1804年)7月10日の夜に象潟地震が起きた。鳥海山は3年前から噴火が続いていた。荘内地方では崩壊家屋数3200戸、象潟を中心に沿岸が南北約25㌔にわたって隆起し、象潟の大部分は陸地化した。能登地震から220年前のことで、地質年代的にはつい最近のことである。東北の日本海側も地震が多い。 江戸時代との違いは、この世界一の地震国に原発が50カ所以上あり、そのうち再稼働している原発が既に20カ所もあることだ。今回の能登地震では近くの滋賀原発はたまたま稼働していなかったので大事故を免れたに過ぎない。 震源地により近い珠洲(すず)市には原発の計画が1975年から持ち上がったという。反対運動の中心になったのが円龍寺の住職・塚本真如さん。28年に及ぶ闘争の末、2003年に計画は中止となった。関西電力は住民の懐柔のため、タダで飲み食いさせたり、原発視察を名目に何度も接待旅行に招いたり、芸能人を呼んで住民向けコンサートも開いた。塚本さんは「あと1年粘られたら、つぶれとったのは僕らの方やった」とかつての日々を振り返る。目先の利益に選択を誤ってはならない。安全な環境を子孫に残すことこそ今生きる我々の義務である。

本稿は宮城保険医新聞2024年7月25日(1848)号に掲載しました。
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