寄稿「『有識者会議』に思う」


「有識者会議」に思う

公害環境対策部員 加藤純二

 

加藤純二HP用 女川原発2号炉の再稼働問題に関して県の「有識者会議」が発足した。東日本大震災の福島原発事故による宮城県南部の放射能汚染問題に関しても県の「健康影響に関する有識者会議」を作ったが、原発事故に関しては、国でも有識者会議や専門家会議のオンパレードである。

 今から三十数年前、小生が米国の国立癌研究所にいたとき、驚いた体験が二回ある。1回目は、あるテーマでパネル討論会が行われた時のこと。会の冒頭、ある若い女性研究者が、「パネラーの人選は誰が、どういう根拠で行ったのか、公平ではない」と発言したのだ。2回目は、研究室内の抄読会で、一人の研究員がある領域の研究史を話した時のこと。小生はどこかから大きな業績を上げた研究者が来て、その領域について解説しているのだと思った。となりの研究員に「あれはどんな人」と聞いたところ、「最近、大学院をでた新人さ」という返事であった。皆、その新人が張り切って話すのを傾聴していた。

 日本では有識者や専門家会議というと、何か「一般人は黙っておれ」という雰囲気を与える。しかも行政が会議を作る場合、その人選は「闇の中」で行われ、出てくる結論は決まっているに等しい。小生が関与した薬害関連の会議には「仕方なく」薬害被害者団体の女性一名が加えられ、その本人の体験を聞いたことがある。彼女が積極的に発言すると、まず資料の配布が遅くなり、前日や当日に大量に来るようになったという。事前に読む時間がなくなり、それでも必死で読んで発言すると、会合の回数が減り、いつの間にか、同様の会が別にできて、彼女はそのメンバーから外されていたという。

 有識者会議、専門家会議、検討委員会などができたら、多くの場合それは行政の責任逃れのためだ。そして選ばれた「行政の走狗」たる有識者は、恥を知るどころか、得意になって行政のためにお膳立てをする。中に申し訳のように選ばれた少ない本当の有識者は、概しておとなしい。原発事故関連以外でも、公平な人選による会議ができ、自由な議論が行われ、一般人がそれを傾聴できるような社会になってほしいと思う。(2015/2/11)

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