「歴史を踏まえた日本の医の倫理の課題」参加報告
理事 北村龍男
医の倫理-過去・現在・未来-企画実行委員会主催の「歴史を踏まえた日本の倫理の課題」と題する映像・講演・対談・シンポジウムが、2015年4月12日、京都知恩院和順会館で開催され、参加してきた。当日のメモ、当日配布された資料を基に報告する。実行委員会の代表は、京都保険医協会理事長の垣田さち子先生、保団連の住江憲勇会長も副代表の一人である。
午前は、①戦時下医学犯罪に関する映像番組等の上映と近藤昭二氏による解説、②青木冨貴子氏による特別講演「731部隊の戦後と医の倫理」、③香山リカ氏の司会で近藤昭二氏*青木冨貴子氏による対談が行われた。午後はシンポジウム、シンポジストは土屋貴志氏、川田龍平氏、石田勇治氏、平岡諦氏であった。
以下、当日のメモから、それぞれの方の印象に残った発言を報告する。
開会あいさつ
垣田さち子実行委員会代表は、日本医学会総会への参加を希望したが、受け入れられず、「日本医学会総会2015関西」に対するアピール企画として開催したと報告した。
先の戦争について、私たちには漠然とした悲しみがあるわけでない。その原因を作った者がいる。検証し次の世代に伝えることが必要と訴えた。
戦時下医学犯罪に関わる映像番組等の上映、解説
近藤昭二氏(「戦争と医の倫理」の検証を進める会世話人、NPO 法人731部隊・細菌戦資料センター共同代表)
初めに①「日本陸軍の深い闇 陸軍731部隊の真実」、②「許されざるメス~九州大学生体解剖事件~」の二本が上映された。近藤氏の解説では以下の点が印象に残った。
近藤氏は最近はデータが出てこないことを強調した。1947年5月、戦犯免責とデータ提供の取引が成立した。米国は資料を日本に返したと言っているが、731部隊関係は4件しか出ていない。活動の内容を示すものはなく、ほとんど明らかにされていない。
731部隊は石井四郎が中心となり、細菌兵器をつくり、実戦に使用した。3000人の人体実験を行い、ワクチンの効かない薬を創ろうとした。マルタと呼んだ犠牲者は特別移送という手続きで搬入された。52名の身元が明らかになっている。ペスト菌がもっとも有用と結論、ペストノミを散布した。実戦使用は1940年秋であった。
ソ連参戦で施設破壊が命じられた。大本営参謀朝枝繁春から一切合切、消滅、抹殺し、「731の秘密は墓場に持って行け」と命じられた。マルタは焼いて川に流した。しかし、石井らはデータを持ち帰る。このデータは戦犯免責の取引材料にされた。731の関連者は誰も戦犯になっていない。
アメリカ、ソ連はデータを欲しがった。ソ連は米ソで独占を、米は米だけの独占を目論んだ。石井等はデータを免責に使い、マッカーサーが保証した。関わった医師は、ミドリ十字会長になるなど、戦後の医学の発展? に貢献した。
九州大学敷地内で行われたアメリカ軍捕虜に対する生体解剖事件では、「薄めた血液? 海水? を代用血液に使えないか?」「肺を切り取ったらどうなるか?」「心臓を一時的に止めても大丈夫か?」「どれだけ血液を取り出せば人間は死ぬか?」などの実験が行われた。
戦争の終わりが追求の始まりだが、九大は当人たちに責任を取らせ、語り継ぐことはなかった。
指揮・執刀を行った石山福二郎(教授)は「軍には逆らえない」といい、後に独房で自殺した。
5人に死刑が言い渡されたが、後に減刑された。軍に責任を追わせようとするが、言い訳はできない、戦争は人を狂わせる。
特別講演:731部隊の戦後と医の倫理
青木富貴子氏は、ニューヨーク在住の作家で、『731 石井四郞と細菌戦部隊の闇を暴く』の著者
青木氏は「今日本は大変な時期に差し掛かっている。私自身の著作は10年以上前のことであるが、この時期に、このような問題に取り組む人がいることに感動し、講演を引き受けた」と話し始めた。
2000年に米軍の細菌兵器を報道し国家反逆罪に問われたジョンパウエルを取材し、「新しい発見の資料がないと本にするのは難しい」とアドバイスを受け、石井四郎の足跡をたどった。石井四郎の身の回りの世話をしていた人を尋ね当て、その人の長男がノート(石井四郎直筆で1冊目「終戦当時メモ」、2冊目は「終戦メモ」横書き)を見つけ連絡してくれた。
石井四郎は京大を出た後陸軍へ、そこから「細菌、予防」の研究のため京大に派遣された。プレゼンテーションが上手かった。
1925年化学兵器、生物兵器の使用を禁止するジュネーブ議定書が作成された。石井はその後2年間の海外旅行(留学?)し、ヨーロッパで細菌戦争について調査した。日本は資源が不足しているので、石井は細菌兵器の開発がよいと考えた。(戦場では)病気で亡くなるものが多いと軍に取り入り、石井部隊創設、総合医学施設をつくることを目指し、内地で出来ないことを満州でやった。
ペストノミを300万匹のネズミに付け実戦に投じた。
ソ連軍の侵攻で、大本営参謀朝枝繁春(当時33歳)が一切破棄せよと命令し、石井(当時53歳)はマルタをボイラーで焼いて、川に流した。
石井はデータ、ワクチンは破棄せず日本に持ち帰った。
戦後、731関係者の周りには諸々の動きがあった。サンダースリポート、石井の家に黒塗りの車、ソ連身柄引き渡しを要求、ハバロフスク裁判など諸々の動きがある。アメリカから「ソ連に何を話してよく、何を話してはいけない、ノミのことは話すな」などの指示を受けたり、病理標本が出てきたり、フィルレポート、米軍に連れて行かれたなどと731にまつわる多くの動きがあった。
戦後、元軍医は公職追放になり、開業した者もいた。技師として携わった者は、後に日本医学会で要職に就く者が多かった。
内藤良一は開業していたが、GHQに言われて「ブラッドバンク」を作った。石井は内藤のところに押し掛けたが断られた。ブラッドバンクは後に「ミドリ十字」となり、元軍医達が職を得た。
石井四郞は若松町で、ごく普通の市民のように自宅で旅館、パンパン宿を経営、石井荘、若松荘等と呼ばれていた。1945年11月には米軍将校6人を自宅で接待したとの記録がある。また、昭和30年8月には石井部隊長囲んで思い出のひとときの写真が残されている。
2001年の炭疽菌事件では22名が被害にあい、5名が死亡している。ブルースアイバン博士の単独犯行とされ、博士は自殺している。
米安全保障省から石井の「メモ」を読みたいとアプローチがあった。アメリカでは知られている。日本では知られていない。
2003年のイラク開戦の大義になった大量破壊兵器は発見されなかったことにいて、アメリカ政府もメディアも検証していない。エボラ出血熱と今後の生物戦の可能性についても検討の必要がある。
対談 近藤昭二氏*青木冨貴子氏、司会香山リカ氏
司会の香山リカ氏は、精神科医・立教大学現代心理学部教授
香山:社会全体で医の倫理を考える。
近藤:昔話ではない。現状は闇取引。日米の間では密約が存在しているのではないか。
青木:日本政府は資料を出してこない。
近藤:自衛隊に資料は必ずある。古本屋で見つかった資料もある。フィルリポートの資料が出てこない。開示されたと言えない。
青木:ブッシュになってから出てこなくなった。クリントンの時代には出してきた。体制によって「全部ノー」。
近藤:日本政府はない、出さないと言わないで、調査中。細菌戦はやったことを認めているが、時効だと。判断は高裁の判断。法は認定しているのに、国は対応しない。日本軍、日本政府の資料は出てきていない。研究者は残しておきたいと思っているので埋もれている可能性はある。研究会が定期的に行われていた。論文化されている。機密性のあるものは「第1部」出てきていない。「第2部」には800本の論文があった(これは公開されている)。若い世代に知識が伝えられていない。この先どうなるか心配。
青木:若い人は何も知らない。
近藤:中国は膨大な資料を出してきている。国家プロジェクトとしてやっている。
青木:日本は向き合わないといけない。習近平について日本は無視している。日本には日記しかない。石井は身の回りの世話をした人に「メモ」を任せた。731は石井が始めて、彼が終わらせた。石井自身は実行犯ではない。プレゼンテーションが得意で研究費を集めた。恐怖心を持たせる、ISと共通点がある。
近藤:研究を競合させる。当時の論文が戦後博士号の申請論文の付属論文にもなっている。医学者の業績として。政府は相手にしないで、「後世歴史学者の評価」に待つとして、ペンデング状態にしている。なぜ認定しないのか。昭和天皇の勅命として行われ、天皇の戦犯問題がかかわっているため。これが尾を引いている。天皇が裁かれることを避けたい。医師は「大義」に保護されても、倫理は問われている。心臓移植の和田問題につながる。
青木:新薬、所詮は毒。人体実験である。石井四郎という人の異常はある。アメリカではサルを使った。強い意見をいう人に引っ張られてしまった。アメリカから見ていると、今の日本は病んでいる。狂気を、戦争だといってしまう。今後のために事実認定が必要である。
近藤:学会ではこのことが出たことがない。昭和27年学術会議で、4部会会員が提案したジュネーブ協定の批准促進提案を7部会会員は否定し、検証しないでしまった。なぜ医学会は? 人的組織の上下関係が続いていて、(教授の言うことには)逆らえない。石山(九大教授)を研究生がとめている、「ウサギでわかっている」と。
青木:医学の世界では、手を染めた先生が亡くならないと(検証を進められない)。
香山:ドイツではガス室に送ることに精神科医が加担していた。遺伝子の排除が目的という名目で。ドイツでは70年掛かって、検証されている。日本では逆の立場に立っている。
近藤:中国から資料が出されていることに、政策的なものを感じる。日本で報道するのは難しい。理解者が少ない。「もういいじゃないか」という雰囲気。
青木:日本の空気は……。
近藤:特定機密保護法。映像を作りようがなくなる。アメリカも重要な資料を出さなくなっている。
青木:あきらめにならないで。
香山:二度と起きないようにするにはどうするか?アメリカで反日的なプロパガンダは?
青木:全くない。「よく日本人でできますね」と言われた。
近藤:日中関係は難しくなる。アメリカとの関係を踏まえて。クリントン時代には資料がよく出された。CIA等は731関係資料を持っているようだ。今はアメリカのワーキンググループも手が届かない。まだ、アメリカには発掘されないものがある。
青木:アメリカにもやろうとしている人がいる。中国の人も興味をもっている。ネットワークをきちんと作っていく必要がある。
シンポジウム コーディネーター:土屋貴志氏
15年戦争期における日本の医学犯罪を検証することは、医療倫理に取ってどんな意義を持つのか 土屋貴志氏(大阪市立大学准教授)
土屋氏は倫理学の研究者であると自己紹介し、研究倫理の主目的は被験者保護であると強調した。
バイオ医学が国策として掲げられ、様々な倫理指針が策定されている。ディオバン事件、STAP細胞事件などにより、「研究倫理」は研究不正を防止することのような狭い理解も生まれている。
731部隊の犯罪は、戦争犯罪でなく医学犯罪である。このようなことは平時でもやられた。 臨床研究とは、人を対象とする実験・研究(「人体実験」)のことである。医学にとって必要な場合もある。医学の目的はよいが、その過程でよくないこともある。
研究審査は必要ないという考えは、今日では通用しない。被験者の人権侵害は許されず、20世紀後半からは研究審査は科学技術研究の必須条件になっている。「人を対象とする医学系研究に関する倫理指針」(H26~文科省、厚労省)がつくられている。倫理指針が次々と作られているのは、国策としてバイオで日本は遅れてはいけないとの認識のため。多くの患者に直接的利益はない研究である。他の患者や人類全体のために行われる。診療と研究は違う。診療はすでに有効性が確立していることを行い、研究は有効性が確立していないことを行う。
研究倫理の目的は、研究不正の防止、消費者の保護、被験者の保護等である。安全性、有効性の確認が不正なく行われたか(有識者にも不正はないか)を、国・行政がチェックする。
反人道的な臨床研究、被験者を「人として扱わなかった」典型例、特に「医学犯罪(医学の名の下に行われた反人道的行為)」として、ナチス・ドイツの医学犯罪、日本の石井機関(931部隊等)などがあげられる。ドイツではニュウルンベルグ裁判が行われた。一方、日本では隠ぺいされた。米国における問題事例では、プルトニウムを末期患者に与えた(としている)。インフォームドコンセントと施設内委員会による研究審査が問題になった。
世界はどう対応しているか。ヘルシンキ宣言は医学研究しかカバーしていない。
医の倫理の問題は、医学会総会の真ん中で行われるべきこと。今回、医学会総会は逃げた。
それでよいのか? 日本の医学界にとって15年戦争期に犯した戦争犯罪はいまだタブーとなっている。このなかで倫理指針が出ている。このままでは、日本の国と医学界は医学研究倫理を語る資格など持ち合わせていない。これでは研究倫理の主目的が被験者保護であることをいつまで経っても理解できない。
15年戦争期の日本の医学犯罪を検証することは、犠牲者に対して「決して再びそのような虐殺を行わず、起こさない」と誓うために行われる。
被験者保護の臨床研究適正化法の成立を目指して
川田龍平氏(参議院議員)
自身が血友病患者であり、薬害エイズ等に取り組んできた。自身の経験を踏まえ、政・官・学の癒着が、薬害エイズ、スモン、C型肝炎、イレッサ、ワクチン問題を起こしており、今国会で、臨床研究適正化法案の成立を目指しているとして以下の報告を行った。
薬剤の問題は法律にしなければならない。歴史的な反省がない、731の関係者はデータと引き換えに免責された。薬害エイズを起こしたミドリ十字(当時)は関東軍731部隊の中枢にいた内藤良一氏が設立したもので、その気風は引き継がれた。それが京都府立医科大のディオバンの事件にもつながっている。
自身も血友病の治療を受ける時に学費患者であったが、提案・同意にあたって患者がもの扱いされている。医学部の専門課程で、1年目でやるのが解剖である。死体のところから学ぶ。人を物として扱ってしまうようになる。
医療機関の中での人間関係、上下関係にも問題がある。
ワイスベッカー演説、3.11後の原発への取り組みなど、ドイツと違い日本は歴史から学ばないでいる。
ディオバン事件などで、厚労省も臨床研究適正化法案を作らねばならないと考えている。今が法案成立のチャンスである。国の案は狭い範囲であった。制度研究を含め、できるだけ広い範囲で臨床研究に対応したい。他の国では法律化されているが、これまで日本ではガイドラインであった。
日本と欧米の法的規制の現状(規制対象の違い)について、①治験については各国とも法的規制があるが、臨床研究については規制の対象範囲が異なる、②日本では、臨床研究については倫理指針で対応し法的規制が存在しないと資料を示した。
現在の臨床研究について次の3点、①日本独特の製薬企業と研究者の癒着で相次ぐ研究不正、助成金・医療費など国費の無駄遣いがある、②ライフイノベーション戦略の実現には、臨床研究に対する国際的信用と国民からの信頼回復が必須である、③疫学、臨床、ヒトゲノム・遺伝子解析等の研究指針が現場にバラバラに混在、実効性が乏しいと指摘し、法案の成立を訴えた。
治験の段階でインターフェロンを被験者として受けてきた。早く使いたいと安全の両面がある。世論が盛り上がらないと法案が議論の俎上に乗らない。国民が声を上げて欲しいと強く訴えた。
ドイツの「過去の克服」から何を学ぶか
石田勇治氏(東京大学大学院総合文化研究科教授)
山田勇治氏の報告について私のメモの量は多い。しかし、ドイツについての知識が少なく、理解不十分であり、整理ができない。理解できた範囲で記述する。
外務省は「日本とドイツは違うから比較する必要はない」と言っている。外務省のHPを見ると歴史認識についてのQ&Aの項で記載はあるが大事なところは触れていない。日独の比較は不可避である。独は謝罪していない。「赦しを請いたい」と述べている。一方、日本は謝罪しているのかもしれない。
ホロコーストの碑、躓きの石のプレート、(モバイルタイプのモニュメント)灰色のバスなどが置かれていることを目にする。議会が手続をし、市民も深くかかわっている。
ユダヤ人の残したものを残す運動がある。アウシュビッツの設計に関わり、ホロコーストに手をかしたYOPF社は火葬場を残している。
過去の取り組みプロセスで着実な成果をあげてきた。東ドイツはナチを徹底的に排除してきた。ドイツの合意形成には長い時間が掛かり、ドイツの評価が上がるのにも長い期間が掛かった。「いい加減に」との声が国民の間にはあった。
アデナウアーは51年9月の連邦議会演説で、「ドイツ民族の名において恐るべきことがなされた」「政府はいかなる形態での人種差別も許さず、全国民が人間的・宗教的寛容の精神を身に付けるよう努力すること」などと述べた。
60年以降を見ると、70年代はヒトラーを肯定していた。キーゼンガーはナチ党員であった。
ブラント首相は70年5月8日、終戦25周年記念式典で「25年前のあのときに多くのドイツ人が個人的あるいは国民的な苦しみとして感じたことは、他の民族にとってみれば外国人への隷従、テロ、不安からの解放でした」と自国の加害責任を明確にした。その年の12月にはポーランドとの関係正常化を約すワルシャワ条約調印式に臨み、その足でユダヤ人犠牲者追悼碑の前で跪いた。
ワイゼッカー大統領は85年5月8日、「5月8日はドイツ人にとって新たな苦しみの始まり」とし、その苦しみは「ナチ政権の成立に由来する」と明言し、「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる」と述べた。ワイゼッカーは、過去の真実を伝え理解するために、「世代を越えた連帯」が必要と訴えた。
ドイツではどの時代でも世論は分かれていた。1回の取り組みでなく、繰り返して取り組み、人権を強めるようになった。ブラント、シュミット、コールも重要な役割を果たした。ドイツのこのような取り組みは、外圧によって始まっている。また、親がナチなのに反省していないと、子どもが家を出るようなことも起こっている。責任者の追放、被害者の補償(ユダヤ人以外への補償)、再発防止の姿勢を政治が明らかにするようになった。一方、日本は外圧がないことで、ドイツの様な取り組みが行われなかった。
石田氏はドイツの歴史認識、歴史教育・メディアについて以下の点を指摘した。歴史学は国史から批判的歴史学へ変容した。国際教科書対話がポーランド、フランス、イスラエルと行われており、独仏共通教科書が刊行されている。特に、メディアは日本と決定的に違う。1979年のホロコースト放映の視聴率は50%を越え、タブーを突破した。戦争がなければよいとの世論を形成した。
日本が学ぶべきことは、思想が人を変えると言うこと。人権の問題を考える。小林多喜二に対する弾圧の思想の根源は?(最後に冗談めかして)安倍さんにも考えて欲しい。
ブラント首相の統合外交、アウシュビッツ裁判、ニュウルンベルグ裁判、フィッシャーの批判的歴史学、緑の党の果たした役割など、知識不足で消化不良であり今後理解を深めたい。
「患者の人権尊重」から「患者の人権擁護」へ;人権意識の変革を
平岡諦氏(健保連大阪中央病院顧問)
平岡諦氏は「日本の医の倫理の課題」の源は日本医学会が戦時下医学犯罪を今日まで検証・反省せずに来たことにあると指摘し、「戦後、日本医師会の中に置かれた日本医学会は、医の倫理を『患者の人権尊重』に止めさせた」と以下の見解を述べた。
日本の医療の民主化に関して、人権思想の欠如がある。患者の人権尊重は、なぜ問題なのか? 人権尊重を人権擁護とすべきであり、医師会・医学会は尊重としか言えない。世界医師会の「患者の人権擁護」を受け入れれば、自らの医学犯罪を隠し通せないと考えたからだ。その結果「患者の人権を尊重するだけで、時に第三者の意向を優先させる」という構造の患者の人権問題が起きた。主治医と患者の関係に第三者の意向が持ち込まれた結果、国の意向にも配慮し、ハンセン病専門医が患者の長期隔離に手を貸し、水俣病、和田心臓移植事件、安部薬害エイズなどを起こした。しかし、「患者の人権擁護」を宣言していない日本医師会は、これらの患者の人権問題に対応はできていない。尊重とは情報強者が尊重することであり、その結果現在の医療不信が起こっている。
世界医学会の流れはニュウルンベルグ裁判、ヘルシンキ宣言、ジュネーブ宣言、リスボン宣言などに基づいている。医の倫理マニュアルでは患者第一が常識である。
世界医師会が宣言の中で使っているautonomy(自律)については、医師のclinical autonomyと医師会のprofessional autonomyを区別すべきである。医師個人が倫理にそって活動するのは当然であるが、それのみでは不十分で,医師会としての倫理にそった活動が求められる。職業団体としてのautonomyの必要性を強調した。
医師の人権意識の変革と共に、日本医学会に戦時下医学犯罪の検証・反省を求め、日本医師会には「患者の権利擁護」を謳った医の倫理への変更を迫っていた。この二つが両輪となって、医療問題の解決、医療不信の払拭につながる。
「日本国憲法第13条全て国民は、個人として尊重される」に関して、この尊重は英文ではrespect、日本語では当初尊敬になっていたが、尊重に格下げが行われた。この経過については、後の討論中で述べていた。
シンポジウムの討論
シンポジストの報告の後、フロアも交え熱心な討論が行われた。討論は多岐に亘り、フロアとは激しいやりとりもあった。
平岡先生から憲法第13条のrespectと尊敬の関係についての詳しい経過が述べられた。時間がオーバーしており、慌ただしく帰り支度をしながら聞いたので残念ならメモはできなかった。
今回の集まりへの参加は大変貴重な時間であり、新鮮な感動を覚えた。記録集が発行されると思う。目を通すことをすすめたい。
京都保険医新聞によると、当日の募集定員は240名であったが、参加は347名、インターネットでの視聴は518名、リアルタイムで計865名であった。